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盛永 俊太郎(もりなが としたろう)

稲の世界的権威 魚津の三太郎博士


盛永俊太郎(1895 – 1980)は、200年余りも続いた素封家の長男として生まれました。魚津尋常高等小学校(後の大町小学校(廃校))、魚津中学校(現魚津高校)、四校(現金沢大学)、東京帝大(現東大)農学部、同大学院卒業(大正10年)後、九州帝国大学(現九州大学)助教授を経て大正15年に教授になり学生の指導に当たりました。

戦後(第二次世界大戦後)昭和21年請われて農林省の農事試験場長となり、昭和29年には農業技術研究所長として技術系農学者としての最高の地位に就き、戦後農業の飛躍的発展をもたらしました。その間、昭和25年に理学博士の学位を受け、九州大学名誉教授となります。昭和30年「アブラナ属及びイネ属の細胞遺伝学的研究」により、日本学士院賞、昭和34年には東畑(とうばた)精一との共編による大冊「日本農学発達史」の刊行によって”朝日賞”受賞。昭和36年に日本学士院会員となりました。

柳田国男らと結成した稲作史研究会による「稲の日本史」五巻や、動物学者上野益三らとの共同研究会による「黎明期日本の生物史」「農学考」「日本の稲」等、卓越した著書が多く記されています。

盛永家は学者一家で知られているが、父の宏成氏が教育熱心で子供達に論語を素読させ、また三国史を面白く語って聞かせたと言われています。俊太郎氏は自然を愛する温厚な人格者で姉弟達にも慈愛深かったそうです。ただ専門の農学に限らず考古、歴史、民俗、言語などの学問にも広い知識をもって研究されました。趣味の俳句にも汀夢と号し、句集「大峯の里」など著しています。 生家の一角に「千歩田を豊かに渡る黄金波」の句碑があります。
※盛岡俊太郎博士の姉は”内山量子”(歌人)、弟の好造氏は”金岡又左衛門”です。(内山邸も金岡邸も富山県分館で見学出来ます。)

魚津市では世界的科学者になる川原田政太郎(まさたろう)、盛永俊太郎、宇田新太郎、この魚津市出身の三人の名前に共通する太郎をとって「魚津の三太郎博士」と呼んで敬愛の念を深くしています。魚津の三太郎は明治30年代から40年代初め(明治11年魚津城址に建設)魚津尋常高等小学校(後の大町小学校(廃校))に学びました。三人の少年が後に短期間のほぼ同年代に不世出の大人物を三人も世に送り出した学校もまれであるといえます。

【世界的科学者】
魚津市では世界的科学者になる川原田政太郎、盛永俊太郎、宇田新太郎、この魚津市出身の三人を「魚津の三太郎博士」と呼んで敬愛の念を深くしています

【人柄】
九州帝国大学の田植え実習の時、誰よりも早く起きて田に入ったと言うエピソードは農民の血を受けている博士の精神的側面を物語っています

【御進講】
昭和29年12月1日皇居内の花苑亭で昭和天皇に御進構として五人の農学者が一日宛、稲について話したが非常に嬉しかった由

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